街道をゆく 9 信州佐久平みち 潟のみちほか / 司馬遼太郎(2008)

街道をゆく 9 信州佐久平みち、潟のみちほか (朝日文庫)


街道をゆくシルーズは他に何冊か読んでいるのですが、自分の地元「龍野」が紹介されている本書には手を出していませんでした。


播州揖保川室津みち」として、主に現在の山崎、一宮、龍野の城下町、室津のことが書かれています。仕事の出張なんかで各地の人と会話していると、中には室津のことをご存知の人がおられてびっくりすることがあるのですが、もしかすれば本書のお陰なのかもしれません。「故郷」の話は、ビジネスにおいても大切な話題だと思います。


高校生の時は、龍野の城下町付近にある県立の高校までまるで苦行をするかのような道のりを毎日自転車で往復していたので、そのことが憎らしくてたまらなかったのですが、いまとなっては単なる思い出となってしまいました。


本書には風景をみているだけでは知り得ないことも多く書かれています。


西播磨地方は、本願寺浄土真宗門徒の勢力が強かったようです。明治期くらいまでは、ハエを殺す事も躊躇うような風習や風骨が残っていたとか。


鶏籠山というのは、自分は山の頂が鶏のとさかのように見えることに由来しているからだと思っていましたが、そのようには説明されてはいなく、遠目から見ると「鳥籠(とりかご)」のように見えるからだと書いてあります。意外でした。龍野の城下町を流れる揖保川の清流は、司馬氏にも美しく映ったようです。


もともとこの地の興味を持ったのは、戦国時代の黒田勘兵衛を主人公として描いた『播磨灘物語』がきっかけであるとか。黒田勘兵衛は頭の切れる人物で、一世一代の賭けに出て、当時勢力を広めていた織田・羽柴側に与したという話は有名です。姫路城を秀吉にあげたのは、彼です。その後、自らの城は山崎に構えました。司馬氏は、その山崎の地に興味を持ちます。


司馬氏がこの地を訪れたのは、1979年くらいでしょうか。文章を見る限り、龍野の城下町は美しいという評価をしているようですが、姫路市西部の景観は見るに耐えなかったように書かれています。おそらく工業化と宅地化でごちゃごちゃな状態であったのでしょう。当時に比べれば、現在の方はずっと整備されて景観も良くなったのではと思います。ちなみに司馬遼太郎の祖父は、姫路市西部の出身だそうです。


龍野城



如来寺



揖保川ヒガシマル醤油



室津港



御津の海・新舞子