Study: 村上春樹の創作過程についての覚書 (5) 記憶について / 山 愛美

具体的な事象の記憶は,時間とともに遠のき,背景に退く。しかしそうして初めて,魂のリアリティのようなものがその奥に浮かび上がって来得る。村上はそれを描いたのであろうか。この物語においては,それは「死は生の対極としてではなく,その一部として存在している」という言葉に凝縮されているのかもしれない。このような体験は,その人の世界の見方や生き方を根底から変え,心の深いところに存在し続け得る。これは個人の記憶であって個人の記憶にとどまらず,万人が共有し得るものである。

私は心理療法での経験を通して,特に,その人の心の中に,自分が今実際に存在している世界─これを例えば「こちらの世界」と呼ぶことにする ─と,それ以外の世界─「こちらの世界」に対して「向こうの世界」と呼ぶことにする─とがどのような関係にあるのか,という観点から,早期の記憶や夢に注目してきた。つまり,内的世界において 「向こうの世界」と「こちらの世界」が完全に隔絶している人も居れば, 両者の間に通路があり,疏通性がある人もいる。そして,その通路をどのように行き来するか,その仕方にも多様性がある。ここでは,心理療法の 具体的な内容について述べることはできないが,我々の周囲を見渡してみても,「こちらの世界」の視点を重視し,そこにひたすらエネルギーを注 いで生きている人と,そうではない人とがいるように見える。さらに言えば,自分が今属している社会の「今・ここ」の価値がすべてのように思っている人もいるものだ。もちろんこれは,どちらが良いとか悪いといった 問題ではないが。

https://kyotogakuen.repo.nii.ac.jp/?action=repository_action_common_download&item_id=1192&item_no=1&attribute_id=19&file_no=1