マーヤー (maya)「幻力」
アヴィディヤ (avidya) 「無明」「(霊的な)無知」「(霊性)無知」
アジュニャーナ (ajnana)「(霊的な)無知」「(霊性)無知」
Bhagavad Gita: Chapter 4, Verse 6
अजोऽपि सन्नव्ययात्मा भूतानामीश्वरोऽपि सन् |
प्रकृतिं स्वामधिष्ठाय सम्भवाम्यात्ममायया || 6||ajo ’pi sannavyayātmā bhūtānām īśhvaro ’pi san
prakṛitiṁ svām adhiṣhṭhāya sambhavāmyātma-māyayāAlthough I am unborn, the Lord of all living entities, and have an imperishable nature, yet I appear in this world by virtue of Yogmaya, my divine power.
https://www.holy-bhagavad-gita.org/chapter/4/verse/6
私は不生であり、その本質は不変、万物の主であるが、自己のプラクリティ(根本原質)に依存して、自己の幻力により出現する。
不生、つまり生まれないということは、永遠の昔から存在していたということです。仏教でも不生不滅といいます。その本性は変わらないが、自己のプラクリティ(根本原質)すなわち物質原理によって、自己のマーヤーにより出現すると説いています。
後で見るように、最高神たるクリシュナは、精神的原理と物質的原理との二つを本性としてそなえています。この「自己のプラクリティ」ということばは、自己の本性ととってもよいと思います。ところで、「自己のマーヤー」とは何でしょうか。マーヤーとは一般的には幻影を意味しますが、ここではマーヤーは、物質的な原理であるプラクリティ(根本原質)の働きを意味するようです。これは一つの創造する力であると考えられます。プラクリティもマーヤーも女性原理です。後代には一般的となるシャクティと呼ばれる力ーこれも女性原理ですーに相当するものがマーヤーであると考えられます。
バガヴァッド・ギーター. 上村勝彦. 1992.
バガヴァッド・ギーターの世界ーヒンドゥ教の救済. 上村勝彦. 2007.
マーヤーは、一般的には、神秘的力・幻・魔術・策略などを意味し、ヴェーダや仏教文献などに広く用例が認められる。シャンカラは、無明(avidya)の概念を導入し、無明によって生起した結果をマーヤーと呼んだ。
岩波 哲学・思想事典. 1998. pp.1528r-1529l
無明は、インドの思想用語としての「無知」、「根本無知」。「無明」は仏教を介した中国語訳。
岩波 哲学・思想事典. 1998. pp.1572r-1573l
Maya is under the control of the Supreme Lord; it belongs to Him (swa māya). Maya and moola prakriti and avidya are synonyms.
(マーヤーは至高の主の支配下にある。それは、「彼」(スワ・マーヤ)に帰属する。マーヤー、ムーラ・プラクティ、アヴィディヤは同義語である)
https://dattavani.org/chaturmasya-pravachanam/chaturmasyam-2006/introduction-on-bhagavad-geeta/
Bhagavad Gita: Chapter 5, Verse 15
नादत्ते कस्यचित्पापं न चैव सुकृतं विभु: |
अज्ञानेनावृतं ज्ञानं तेन मुह्यन्ति जन्तव: || 15||nādatte kasyachit pāpaṁ na chaiva sukṛitaṁ vibhuḥ
ajñānenāvṛitaṁ jñānaṁ tena muhyanti jantavaḥThe omnipresent God does not involve Himself in the sinful or virtuous deeds of anyone. The living entities are deluded because their inner knowledge is covered by ignorance.
Bhagavad Gita: Chapter 5, Verse 16
ज्ञानेन तु तदज्ञानं येषां नाशितमात्मन: |
तेषामादित्यवज्ज्ञानं प्रकाशयति तत्परम् || 16||jñānena tu tad ajñānaṁ yeṣhāṁ nāśhitam ātmanaḥ
teṣhām āditya-vaj jñānaṁ prakāśhayati tat paramhttps://www.holy-bhagavad-gita.org/chapter/5/verse/15
But for those, in whom this ignorance of the self is destroyed by divine knowledge, that knowledge reveals the Supreme Entity, just as the sun illumines everything in daytime.http:// https://www.holy-bhagavad-gita.org/chapter/5/verse/16
主君(個我)は何人の罪悪をも受けとらない。だが、知識は無知により覆われ、それにより生類は迷う。(BG5:15)
しかし、知識により彼らの自己(アートマン)の無知が滅せられた時、彼らの知識は太陽のように、かの最高の存在を照らし出す。(BG5:16)
個人の中心主体そのものは、純粋に知的な存在であるとされます。純粋の知のかたまりであるともいわれます。このように完全で清浄な、純粋な知ですから、善悪の業に支配されません。悪いことをしても、善いことをしても、純粋な知はその結果に支配されないのです。
しかし、知そのものが宿る個々の存在が、3つの要素に働きによっていろいろ行為します。純粋な知が、物質的なものと結びついて、無知におおわれているから、輪廻の主体となるのです。無知におおわれているうちは輪廻し、生類は迷います。しかし、正しい知識により人々が滅さられるとき、彼らの知識ーアートマンそのものである純粋な知ーは輝き出て、かの最高の存在を照らし出すといいます。最高の存在とは絶対者ブラフマン、あるいはアートマンそのものです。
バガヴァッド・ギーター. 上村勝彦. 1992.
バガヴァッド・ギーターの世界ーヒンドゥ教の救済. 上村勝彦. 2007.
ニヤーナ学派では、こうした懐疑論者を、自己の主張を何ら掲げず、ただ他者の主張の批判のみに終始する<vaitandika. ヴァイタンディカ>(揚げ足取り)として退けた。ただし、論証の前段階としての<疑惑>(samsaya)の価値を承認し、疑いがなければ論理(ニヤーヤ)は機能しないとしている。しかし一般にインド思想においては、疑うことは正しくない、克服されるべき精神的態度(ajnana, avidya)として捉える傾向が強い。
岩波 哲学・思想事典. 1998. p. 203r